レンズ越しに「アメリカ」を追いかけて
平野太呂 写真家
Profile
- 平野太呂(ひらの・たろ)
- 武蔵野美術大学造形学部映像学科卒業。写真家。大学卒業後、講談社でアシスタントを経て、2000年からフリーランス。スケートボード専門誌『SB』起ちあげに関わり、広告、CDジャケット、ファッション誌、カルチャー誌で活躍中。2004年、東京渋谷区にギャラリー「NO.12 GALLERY」を開設。2005年に、はじめての写真集『POOL』(リトルモア)を出版し、国内外で個展を開催。
アメリカのスケーターたちが忍び込んで滑る、廃墟となったプールを撮った「POOL」で注目を集めた写真家、平野太呂。高校時代から魅了された写真。その技術をムサビ時代から高めてきたが、自身の人生を切り開くきっかけとなったのは、趣味のスケートボードだったという。
一眼レフの面白さが写真の世界の入り口だった
大学受験では、写真の勉強をしたいという気持ちと、英語を勉強して、将来は国際的な仕事がしたいという気持ちがあり、ムサビ以外はすべて総合大学を受験しました。結果的に、ムサビも他大学も合格したのですが、ムサビに合格した喜びの方が大きくて、写真を学ぶことを選択しました。写真に興味を持つようになったのは、高校3年生の頃。当時(90年代初頭)、HIROMIXなどが火付け役となったガーリー・フォトがブームになり、何故か男子の僕もやってみたいと思ったんですよね。知人から譲ってもらった一眼レフカメラで、友達や風景などを題材にして撮っていたのですが、その頃、絞りを浅くすると背景がボケたりなど、一眼レフカメラの持つ機能的な面白みにどんどん魅了されていきました。
ムサビは入ってみると、個性を重視した自由な雰囲気に満ちていました。ユニークな発想を持つことを全く否定されないんです。だから、進学校を卒業した学生は戸惑いを感じることもあったのではないでしょうか。その点、私は自由な校風が特長の高校出身でしたので、全く違和感がありませんでした。そのためか、ムサビでできた友人に、高校時代の友人を紹介すると意気投合して、私より仲良くなったりしたことも。
卒業後は、半年ほど経ってからカメラアシスタントとして講談社に入社しました。通常、アシスタントというと苦労話が絶えないのですが、私が入社した頃は「厳しい環境ではアシスタントが辞めてしまう」という雰囲気があり、甘い時代だったせいか、伸び伸びと過ごすことができました。また、大きな出版社ですからあらゆるジャンルの出版物の撮影に携わる機会に恵まれましたね。育児の雑誌からミセス向けのファッション誌、ギャル系の雑誌、メンズファッション誌まで、あらゆる雑誌があり、その特徴に応じて多種多様な撮影現場を経験したので、学べる幅が広く、スキルを磨くには最適な場所でした。
スケートボードが転機となった
- 『POOL』(2005年・リトルモア)
- 『POOL』(2005年・リトルモア)
- 『POOL』(2005年・リトルモア)
- 『POOL』(2005年・リトルモア)
- 『POOL』(2005年・リトルモア)
- 『POOL』(2005年・リトルモア)
講談社は3年契約だったので、3年経つと辞めなくてはいけませんでした。通常、アシスタント卒業生はここで苦労するんですよ。独立しようと思っても十分な仕事量があるわけではないですから。1~2年は細々と生活しながら仕事を増やしていくのが一般的なパターンで、なかには辞めてしまう人もいます。ところが私の場合、幸運にもスケートボード(以下スケボー)専門誌から多くの仕事をもらうことができました。
スケボーは中学生の頃からずっと続けていますが、当時はスケートボーダー人口も少なく、専門誌もありませんでした。ところが講談社にいた頃、ある編集プロダクションからスケボー誌が出版されるという情報が入り、アシスタントをしながら磨いたスキルを活かせると思って、地道に練習をはじめたんです。というのも、スケボーの撮影は撮影条件の悪い場所で動いている被写体を撮らなくてはいけないので、高い技術が求められます。だから、休みのたびに友人とスケボーをしに出かけ、そこで撮った作品を編集担当者へ送って、ギャラを頂くという毎日を送っていました。
スケボー誌では、私の強みが存分に発揮できました。長く趣味として続けていたので、「この技は格好いい」「この場所で撮るのがいい」など、編集者的な視点からも提案することができ出来ました。また、スケボーの縁で若者向けのカルチャー誌や、ファション誌などからもオファーを頂くようになり、仕事の幅が広がっていったことも運が良かったと思います。その縁のひとつが、マガジンハウスの『relax』(現在休刊)。私の代表作となる写真集『POOL』も、この雑誌の取材でカリフォルニアのプールへ行ったことが始まりでした。
僕らはどうしてこんなに、アメリカに影響されちゃったんだろう
カリフォルニアには、水を張っていないプールでスケボーを楽しむというカルチャーがあります。これは70年代のある年、大干ばつの影響によって空になったプールで、サーファーたちがスケボーを楽しみだしたのが始まりです。アメリカのプールは日本のプールと違い、底が丸いんですよ。だから、ぐるぐる回ったり上ったり下りたりすることができます。こういう違いは、日本にいるかぎり分からなかったことです。私はそこに興味があったので『relax』の編集者に取材させてくれって直訴しました。
アメリカのプールの多くは職人の手作りによるもので、ひとつひとつ形や大きさも違うし、傾斜も素材感も違います。だから、当然滑り方も滑り心地も違います。それが面白くて、プールでばかり滑るスケートボーダーたちは、いろいろなプールを転々と探して回るんです。探し方はダイナミックで、なんと上空から。小型飛行機を飛ばして上空からビデオを撮り、あとで地図と照らし合わせながら陸路で向かって確かめるんです。見つけたらフェンスをよじ登って、裏庭に侵入。滑る場所は基本的に空き家ですから、多くのプールはヘドロなどが溜まって汚いのですが、そこをキレイに掃除して滑ります。そして、警察が来る前に逃げるというのがルール。編集者には、こういった一連のドキュメンタリーをやりたいと伝えました。
『POOL』にも言えることですが、私のテーマとして常に心の中にあるのは、「僕らはどうしてこんなに、アメリカに影響されちゃったんだろう」ということ。これは、私がスケボーという趣味をもっているからとも言えますが、アメリカが好きなのにもかかわらず、心のどこかで「何かが違う」と思う部分もあるんです。その意味で、『POOL』はアメリカのわくわくするような自由に溢れた文化、個性というものが表現されている一方、空家や廃れた住宅街という闇(=「何かが違う」)の部分も内包した、複雑な作品になったと思っています。だから、『POOL』はアメリカに対しての感情や、スケボーに対する愛情など、私にとっては重要なものがすべて入っており、非常に納得のいく作品になりました。ただ、これがあまりにも納得のいく作品になりすぎて、『POOL』を超える次の作品のテーマはなかなか難しいですね。