敗北感からの再出発
小坂竜 デザイナー
Profile
- 小坂竜(こさか・りゅう)
- 武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。株式会社乃村工藝社 A. N. D. クリエイティブディレクター。大学卒業後、同社に入社。主な仕事に2005年「マンダリン オリエンタル 東京」、2007年「新丸ビル」、2009年「LA BOUTIQUE de Joel Robuchon」、2012年「PALACE HOTEL 和食フロア」がある。
マンダリン オリエンタル 東京のメインダイニング、オリエンタルホテル神戸、新丸ビルの環境デザインなど、レストランやホテルを中心とした商業施設のトップデザイナーとして活躍する小坂竜。現在は海外でも高い評価を受けているが、駆け出し当時は中途半端だったと振り返る。仕事に真剣に向かい合うきっかけとなった出来事とは、一体何だったのか。
卒業してから気づいたムサビの価値
父は彫刻家、祖父は日本画家。実家にも祖父の家にもアトリエがあり、たまには手伝うことも。こんな環境で育ったため、幼い頃から美術に対する感度は高かったです。しかし、同じような道へ進むと父や祖父が師匠のような存在になり、一生、頭が上がらなくなってしまうのではないか。だから、高校時代はまったく違う道へ進むことを考えていたのですが、やりたいことが何も見つからず、結局美術の世界へ進むことにしました。ムサビで建築学科に入学したのも、どこかで父や祖父とは別の分野へ進みたいという気持ちをもっていたからだと思います。いざ入学してみると学内に父の知人や後輩がいて、「お前が小坂の息子か」なんて言われるようなこともあり、結局開放感は感じられなかったですけど。
ムサビ時代の思い出というと遊びが中心で、勉強はあまりしませんでしたね。大学に入学しただけで目標を達成してしまったような気持ちになり、何をやっても中途半端。卒業後はアパレル会社へ就職したのですが、2週間ほどで退職しました。それで何もやることがなくなり、桑沢デザイン研究所(以下、桑沢)の夜間部に入学したのですが、桑沢の学生にしてみると僕は美大の卒業生ということもあって、すごく不思議な存在だったと思います。だから、分からないことをいろいろ聞かれるのですが、僕はムサビ時代にしっかり勉強していなかったからちゃんと答えられない。それがすごく恥ずかしくて、桑沢の2年間はかなり勉強しました。そこで気付いたことは、ムサビの環境がいかに恵まれたものであったかということ、自分がいかに4年間を無駄に過ごしてしまったかということ。今でも当時のことを後悔しています。
常に遠回りをしてきた
- オリエンタルホテル神戸
- オリエンタルホテル神戸
- オリエンタルホテル神戸
- W hotel
- W hotel
- 渋谷ロフト
現在所属する乃村工藝社には中途採用で入社したのですが、実は該当者無しということで本来は入れなかったはずなんです。だから、おまけのような感じで入社が決まり、底辺からのスタートということになりました。それでも毎月の給料が出て安心してしまったせいか、ムサビ時代のように甘い自分が出てきはじめていました。仕事だって上司の書いた図面の修正とか、誰でもできるレベルのものしか与えられなかったし、とにかく就職できたことで満足してしまったんです。ムサビ時代と同じパターンですね。あの頃を振り返ると、常に遠回りをしていたような気がします。
ところがこんな僕を変えてくれた人たちがいました。音楽好きの人間が集う六本木のお店で出会った、ミュージシャンたちです。彼らの音楽に対する情熱というのは、僕とはまったく比べものにならなかった。彼らはすごく熱く語るのですが、対して僕は何も語れるものがなかった。デザイナーの名刺はもっていたものの、何のデザインをしているのかと聞かれもしなかったし語ることもできなかったんです。そしてそんなある日のこと、テレビの深夜番組に彼らが出ているのを見たんです。そのときは、圧倒的な敗北感を感じましたね。僕が真剣に仕事と向き合うようになったのは、それからです。
まず、最初に行ったのは、飲食店のオープン情報を入手すること。お店がオープンするという話が耳に入ればすぐデザインを描いてもって行き、会社の仕事とは別に営業をしていました。ほとんど相手にはされなかったですが、物事に対して積極的になることができました。それから暫く経って、初めて社会的に認められたのは、ディスプレイデザイン賞(現・日本空間デザイン協会)やSDA賞(日本サインデザイン協会)をいただいた渋谷ロフトの仕事でした。提案したのは環境音楽と変化する照明に合わせて、ロゴが崩れたり元の形に戻ったりする動くオブジェで、僕のアイデアに決まったのはオープンの約2週間前。それから浅草橋の金物屋さんに泊まりこんで自分の手で作ったのですが、これが大きな自信になりました。以降、30歳の頃までは主に西武百貨店の催事のデザインを手掛けていました。
レストランとホテルは特別な場所
現在、僕が手掛けているメインの仕事はレストランやホテルのデザインですが、これらの一番の魅力は、作品が長く残るということです。そもそも乃村工藝社の仕事は、百貨店の催事やモーターショーなど大きなイベントも多く、終わるとすぐに撤収されます。これに対してレストランやホテルの仕事は、基本的に長く使われ続けるものであり、期間限定の仕事の多かった僕にとっては、非常にやりがいを感じる特別な仕事と言えます。
この分野で仕事の幅が広がったきっかけは、マンダリン・オリエンタル東京のレストランのデザインで高い評価を得たことでした。以来、国内のホテルのオファーも増えていったのですが、とくに大きな仕事として印象に残っているのは、オリエンタルホテル神戸の仕事です。それまでの仕事はホテル内のレストランの内装だけなど、限られた空間のデザインを行うものだったのですが、このときはほとんどゼロから携わり、ホテルという建物において、レストランの配置をどうするかといったところから参加しました。また、客室に置くコップや椅子まで含めてデザインしたのですが、ここまで広範囲に手掛けたのは初めてのことでした。
現在は、海外のホテルの仕事が増えていますが、日本との最も大きな違いはプレゼンだと思っています。海外ではプレゼンが非常に重要で、ここでイエスと言われたものは絶対であり、あとで変わることはありません。一度任せたと言ってもらうと、とことん任せてもらえ、たとえ完成後に気に入らないものができたとしても、それはクライアントの責任であり、デザイナーの責任にはなりません。それだけ、デザイナーに対してリスペクトする気持ちが強く、また地位も高いように感じられました。加えて近年では、日本のデザイナーは非常に高い評価を得て、活躍の場が広がっています。
しかしそのような状況に反して、最近は海外に留学する日本の若者たちが減っているといいます。僕はそのことに危機感を感じています。中国や韓国の若者はどんどん海外へ出ており、貪欲に知識を吸収し感性を磨こうとしています。あの姿を見ると近い将来、必ず我々を追い抜いていくだろうと肌で感じるものがあります。日本の若者も彼らに負けないよう、これからぜひ積極的に海外へ進出して、どんどん学んでいってほしいと思っています。