美大生にしか持てない刀がある
リリー・フランキー イラストレーター

リリー・フランキー「美大生にしか持てない刀がある」 リリー・フランキー「美大生にしか持てない刀がある」

Profile

リリー・フランキー(りりー・ふらんきー)
武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン学科卒業。イラストやデザインのほか、文筆、写真、作詞・作曲、俳優など、多種多彩な分野で活動。初の長編小説『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』は、2006年本屋大賞を受賞、220万部を超えるベストセラーとなったほか、オリジナル絵本『おでんくん』はアニメ化され、オリジナルグッズなども性別世代を超えて幅広い人気を集めている。俳優としては、映画「ぐるりのこと。」、「色即ぜねれいしょん」、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」、TVドラマ「コード・ブルー」(CX)、大河ドラマ「龍馬伝」(NHK)、「モテキ」(TX)などに出演。

ベストセラーとなった自伝的小説「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」の著者として知られ、現在もイラストレーター、小説家、作詞・作曲家、演出家、フォトグラファー、俳優など多彩な才能をもち、幅広く活躍するリリー・フランキー。ムサビ時代は遊びに明け暮れ、卒業後も自分の生き方を通した彼は、美大生には美大生なりの生き様があると力説する。

田舎を出て、ただ東京へ行きたかった

中学から美術の専門高校に進学したときも、ムサビに進学したときも、動機は同じようなものでした。高校進学の頃はなんとかこの田舎から出て行きたいと考えていたし、大学進学の理由もただ東京へ行きたかったから。どちらもその手段が進学だったわけです。田舎は炭鉱の町だったのですが、閉山した後は町全体が疲弊しきっていて、15歳や18歳なりに考えて「ここにいてどうする」と思ったんですよ。そんなとき、親父から「東京の大学へ行っていろいろなものを見て来い。いろいろな人がいて、いろいろなものの考え方をする奴らがいるのを見て来い」と、ゲイバーで言われました(笑)。だから、上京するためには大学でなくてもいいと思っていたし、受験したのもムサビだけ。ムサビを落ちたら働こうと考えていました。

芸能デザイン学科(現、空間演出デザイン学科)に入ったのは、最も一般の職業に直結していない学科だと思ったから。例えば同学科で学べる舞台美術は、大学案内を見たとき、工業デザインや商業デザインなどとは違って、浮世離れした感じがしたんです。そもそも美大というものは、世捨て人の集まりだろうと思っていましたから(笑)。実際はイメージとは違いましたけどね。上京したばかりの頃は、よく劣等感を感じていました。田舎から出てきたばかりの人はみんな感じることだと思うのですが、方言が通じないし、見たことのないようなものが溢れていましたから。美大生は高校時代、クラスでも一番絵の上手だった学生が集うじゃないですか。でも、ムサビに来ると上には上がいるという現実を知ってしまう。それで劣等感が生まれたりするんだけど、俺は自分が絵が上手いなんて思ってなかったら、その点での劣等感はなかったですね。

大学時代はとにかくずっと遊んでいましたね。でも、俺らの学生時代はバブルだったから、どんな学生でも内定は3つくらいもらっていましたよ。友達はみんな有名な会社に入社していきました。今でも仕事でテレビ局に行くと、ドラマの美術を担当するスタッフは結構知り合いなんです。当時、舞台美術を専攻している大学は、ムサビくらいのものでしたから、ムサビOBはすごく活躍していてうれしいですね。

ひとクセある人々に囲まれて過ごしたムサビ時代

リリー・フランキー

リリーと最初に呼ばれたのは、大学1年生のときでした。同級生にクラシックの楽曲をギターでものすごく上手に弾く友達がいました。俺のモーリスのギターでバッハの曲を弾いたのは彼が初めてでしたね。彼は大学の授業が終わると毎日のように家へやって来てギターを弾き、そのまま泊まっていました。そのため、あの二人は仲がよすぎるということで、周りの女子たちが彼をローズ、俺をリリーと呼び始めたんです。当時の同性愛の象徴ですね(笑)。

当時の俺の家は吹き溜まりのようなもので、高校の後輩と一緒に住んでいたこともありました。家に集まってきたのは男だけでなく、女の人も来ました。いつもモヒカンのパンク風なお姉さんが勝手に家に来て寝ちゃうんですよ。当時の俺は童貞だったから怖かったですね(笑)。いつも革ジャンを着ていて、その下は常に下着なんですよ。そして、いつも酔っぱらいながら家に来るんですが、あるとき町のおじさんとケンカして、頭から血を流しながら俺の家に来て寝ていたんです。今だったら、かわいい20代前半の女性として接することができるんでしょうけど(笑)。

当時のムサビはそういう学生がいっぱいいたのですが、就職しなかった学生はほとんどいなかったですね。俺は全く就職する気がなかったので、そんな同級生たちを見て寂しさを感じていました。元々「画家になるんだ」「芸術家になるんだ」と言っていたのに、就職が決まって一喜一憂している姿には違和感を感じていました。

俺の場合は就職どころか留年したんですけどね。原因は、テレビゲームにはまっていたから(笑)。卒業制作はスーパーマリオブラザーズの世界を表現したもので、マリオ一人で8ステージのうち4ステージまでを、一度も失敗せずにたどり着く様子を録画して延々と流したんですよ。それを制作物っぽく見せるために、石膏で固めた棒を画面の周りに立てただけで提出しました。作品を主任教授がチェックして回っていたのですが、当時、俺が最もお世話になった小石新八先生(現名誉教授)が、その主任教授を案内しながら俺の作品をスルーして回ってくれたんです(笑)。そのおかげで卒業もできたし、いまでも感謝しています。

就職の失敗なんて大したことはないと教えてあげたい

リリー・フランキー

ムサビ時代に何がプラスだったかと言えば、やはり考える時間が多かったことですね。毎日大学へ行き、いろいろなことを考えたり語り合ったりしたことが、今の自分の基礎になったし、その後の無職で過ごした5年間で熟成させていったような気がします。この5年間はもうこれ以上、後がないという状況で、雀荘に一週間いたこともありました。その間、一度も家に帰らず、食事は雀荘の無料で出されるおにぎりを食べて、しのいだりしていました。当時、ただ1つだけだったイラストの仕事も雀荘で受けていたし、お金がなくなりそうになると友達に頼んでもってきてもらいました。

そんな状況だから、人がどんどん去っていきました。大学の頃は結構な人気者だと思っていたのですが、パタリと人が寄りつかなくなりましたね。友達ってこの程度かと思いましたよ。だから、今でも付き合いのある同級生はほんの数人です。

それでも就職しようとは思っていませんでした。みんな、大学4年生になると自分が何をやりたいか分からないうちに就職活動が始まり、決まった就職先で自分のやりたかったことと、実際に獲得したことをすり合わせていますよね。それは当たり前のことかもしれないけど、本当にそれでいいのかしっかり考えるべきだと思います。しかも今は、就職に失敗したことを苦に自殺する人もいるらしいですけど、それはすごく残念なことです。就職なんてたいしたことじゃないと教えてあげたい。人生のすべてを決定するものじゃない。とくに美大生は、美大以外の大学で得られるものとは違う、もっと美しいもの、もっと豊かなものを得るために美大へ入ったはず。そこで得られるものは社会の一般的なものさしで戦っていくには弱い刀かもしれないけど、美大生にしか持てない刀のはずなんです。だから、それにもっと誇りをもってほしいと思うんですよ。そもそも、絵描きというものは、俺はロマンチックなものだと思っています。肉体が滅びても生き続けているものがあるわけですよ。だから、就職が決まらなかったとしても「君に才能がないわけはなく、タイミングが悪かっただけだよ」と言ってあげたいですね。