ビジョンの先に普遍性を求めて
桝田省治 ゲームデザイナー
Profile
- 桝田省治(ますだ・しょうじ)
- 武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科卒業。ゲームデザイナー。有限会社マーズの代表取締役。第一広告社に在勤中、『桃太郎伝説』(ハドソン)の開発に携わったことをきっかけに独立。主な仕事に1992年『天外魔境II 卍MARU』(ハドソン)、1999年『俺の屍を越えてゆけ』(ソニー・コンピュータエンタテインメント)がある。2010年『まおゆう魔王勇者』(エンターブレイン)を書籍化し刊行。
広告代理店に在職時から「桃太郎伝説」のゲーム制作に携わり、独立後は「天外魔境II 卍MARU」「俺の屍を越えてゆけ」など、数々の意欲作を発表。最近では「まおゆう魔王勇者」の書籍化が話題を呼び、幅広く活躍する桝田省治。ムサビ時代は優秀な成績ながら、一番にはなれない諦めから見出したのは、才能豊かなスタッフを指揮するプロデューサーの道だった。
プロデューサーへの道を見つけたムサビ時代
ムサビの基礎デザイン学科を選んだ理由は、就職率がよかったことと、女の子がいっぱいいたから(笑)。とくにあの時代は、糸井重里さんや川崎徹さんなどが活躍していて、広告業界が格好よく見えたことも理由です。そんな不純な動機でしたが、ムサビ時代の成績はよかったですよ。1、2年生の頃は見るもの聞くものすべてがおもしろくて、とれる授業はほとんど出席していました。その結果、必修授業以外の単位はすべてとってしまったので、3年生からはほとんど大学へ行く必要がなくなってしまうくらいでした。
ムサビにはあらゆる分野で、自分より上手な学生がいます。だから、どうしても一番にはなれないというのが、1、2年生の頃の印象です。そのため、3年生のときには一番になることはあきらめて、逆にこの優秀な連中をまとめる立場になった方がいいと考えるようになりました。こんなにすごい才能をもった人たちを相手に専門職を目指すより、プロデューサーの立場になった方がいいと考えたわけです。以来、システム的なスキルに磨きをかけることに傾注していくのですが、その過程でもムサビで学んだことが役立っています。例えば、コンピュータの言語なんて論理学のまんまだし、他人に物事を伝えるときのアプローチや方法論は、記号論で学んだことに通じますから。
システムというと、芸術祭のことが思い出されます。MAUjinのインタビューで中島信也さん(東北新社)が、芸術祭のことを語っていらっしゃいますが、私も当時、彼の一学年下でサインシステムを担当していたんですよ。例えば公衆電話やトイレの場所を知らせる標識。初めてムサビに来た来場者向けのキャンパス案内が目的だったのですが、期間中は大学中にカラフルな看板が立って混沌としているから、よほど上手くやらなければ、サインシステムなんて機能しないんですよ。そのなかで、どうやったらうまくいくのか悩んだこと自体が、とても楽しかった思い出ですね。
広告代理店からゲーム制作の世界へ
- 小説『まおゆう魔王勇者 1 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」 』
©2011 Touno Mamare/ENTERBRAIN, INC.
- 漫画『まおゆう魔王勇者「この我のものなれ、勇者よ」「断る!」 (1)』
漫画:石田あきら 発行:角川書店
©石田あきら/角川書店
- 漫画『まおゆう魔王勇者(1)』
漫画:浅見よう 発行:エンターブレイ
©2012 Y0 Asami
- 『俺の屍を越えてゆけ』
© 1999-2011 Sony Computer Entertainment Inc.
- 『俺の屍を越えてゆけ』
© 1999-2011 Sony Computer Entertainment Inc.
ゲーム制作の仕事に携わるようになったのは、ムサビ卒業後に入社した第一広告社(現I&S BBDO)で、ゲーム会社の広告を担当したことが縁の始まりでした。当時、私はハドソンを担当していたのですが、あるとき締切間近にもかかわらず『桃太郎伝説』の宣伝素材が出来上がっていないというハプニングがありました。ゲーム中の戦闘システムのトラブルが原因だったのですが、「だったらこうやればいいんじゃないの?」といった話をしているうちに「じゃあ、お前がやってくれ」という話になっちゃったんですよ(笑)。
以来、広告代理店の社員という立場を超えて、ゲーム制作の作業にも関わるようになったのですが、その時はせいぜい一週間程度のものでした。ところがある日、3か月くらい拘束されてしまうような案件が出てきてしまったんです。さすがにそれは会社に相談し、了承を得てから携わったのですが、3か月間、札幌の雪の中に閉じこもる日々を過ごしました。いざ会社に戻ってみると、かろうじて机はあったものの、イスがなくなっていて机の上も他人の荷物で占領されていたんです。さらに同業他社に勤めていた婚約者が、私と同じクライアントを担当することになってしまい、これはもうどちらかが会社を辞めた方がいいと考えました。それで、給料の明細を見せ合ったら、これは僕が辞めた方がいいという結果に(笑)。おまけに、3か月間拘束されたゲームの続編『天外魔境Ⅱ 卍 MARU』を制作することが決まり、いよいよ独立することになりました。
独立してまず考えたことは、この先どうやって生き残っていくかということ。選択肢は二つあり、一つはこのままメジャーなタイトルに関わり続ける道でした。収入を考えれば、この方が安定することは分かっています。ただ、当時のゲームは市場全体が子ども向けだったにも関わらず、自分の子どもやその周りの環境を見ていて、少子化というものを肌で感じていました。だから、大人を対象にしたゲーム作りを考えようと思ったんです。それが第二の選択肢でした。私が20代の頃でも電車の中でマンガを読んでいる30代なんていっぱいいましたから、ゲームも受け入れられるはずだと確信していました。
プロデュースにおいて一番大事なものとは
プロデュースするうえで一番大事にしているのは、スタッフ全員に分かりやすい着地点を伝えること。「これが完成したら、人はこんな風に笑うだろう」とか、あるいは「こんな風に利用するだろう」とか。なるべく具体的に示し、みんなが共有できるようなはっきりとしたビジョンを示します。例えば、一昨年前から始めた『まおゆう魔王勇者』の出版。これは2ちゃんねるに投稿された即興の小説で、ネット上で話題になった作品です。私はこれを書籍化したのですが、ビジョンとして示したのは「10~15年後、中学校の図書館の片隅に黄ばんだ本として残っており、それが未だに読まれ続けている」というものでした。
そもそも、このようなケースの場合、通常は短期的な利益を考え、ネット上の愛読者たちの好みに合わせた絵を用意し、文庫で出版して一定の部数が売れたらアニメ化するのが既定路線になっています。私の場合はそのような路線を無視し、自分の考えたビジョンに沿って、出版社や作者を説得し、そのビジョンを共有してもらいさえすれば、最高の結果が出るであろう人材を集めました。発売した当時は、作品に思い入れのある2ちゃんねるの利用者に滅茶苦茶叩かれましたが、それでも現在は図書館に入り始め、中学生や高校生から一定の支持を頂けるようになってきました。
ゲームにしろ、出版にしろ、私はよく普遍性というものについて考えます。それが世代や性別の普遍性なのか、10年後にも見られる(使われる)という普遍性なのか、言語を超えた普遍性なのかは場合によりますが、せっかく作るのなら末長く、多くの人に楽しんでもらいたいですからね。学生は10年先とまでは言わないまでも、3年~5年先の自分がどうなっていたいか、ある程度具体的に考えておくべきだと思います。そこで私はよく「最短コースを全速力で走れ」と言うんです。回り道なんてしなくていいんです。自分の目標への最短コースを探し、それに向かって全力で走ることを考えた方がいい。だから、どれが最短コースかを見極める力が不可欠です。大学とは実は、その力を磨く場所なのではないでしょうか。