装幀作りは感じるままに
名久井直子 ブックデザイナー

名久井直子「装幀作りは感じるままに」 名久井直子「装幀作りは感じるままに」

Profile

名久井直子(なくい・なおこ)
武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。ブックデザイナー。広告代理店勤務を経て、2005年よりフリーランスとして独立。小説家の長嶋有、柴崎友香、福永信、美術家の法貴信也とブックスゴニングミを結成し同人誌を刊行している。近年の主な仕事に2012年6月『やりたいことは二度寝だけ』津村記久子(講談社)、2012年6月『小川洋子の偏愛短篇箱』小川 洋子(河出書房)、2012年4月『バナナ剥きには最適の日』円城塔(早川書房)がある。

小説から絵本、辞書まで、デザインを手掛ける本は年間約100冊。江國香織、長嶋有、辻村深月など多くの著名作家の装幀を手掛け、書店では「名久井の装幀」コーナーができるほどの人気を得ている、名久井直子。ムサビ時代は、美術のスキルを見つめ直すスタートとなったが、学生生活はとことん真面目だったと振り返る。

高三の夏に初めて知った、美大受験の難しさ

私は子どもの頃、幼稚園にも保育園にも入らず、昼間は寝たきりの祖母と一緒にテレビを見て過ごしていました。よく見ていたのはNHK教育テレビの工作番組「できるかな」。この頃からお絵描きや工作が好きで、セロハンテープを多い日は一日一本使っていました。小学生になると読書に夢中になり、足繁く図書館に通っていました。子どもらしい本もたくさん読みましたが、高学年の時に好きになった作家は、安部公房や古井由吉、岡本かの子など。早熟な子供でしたね。高校時代には漢文や古文にも熱中していて、試験に出てくるような古文はほとんど読んでいました。また、中学生の頃からはデザインの世界にも興味をもち、『デザインの現場』『広告批評』『イラストレーション』といった雑誌をよく読んでいました。

ここまでは、まるで現在の私の姿を暗示しているような子供時代ですが、高校生の頃の将来の夢は、数学者になることだったんです。数学は問題を解くときにアーティスティックな面があるんです。だから、まずは美大へ入学してアートを勉強し、卒業後に一般大学に入学しなおして、数学者になりたいと思っていました。ただ、岩手県に住んでいたので東京のように美大の予備校がなく、お絵描き教室の延長のようなところでデッサンをするしかありませんでした。そこで高校三年生の夏、受験対策で、すいどーばた美術学院の夏期講習を1か月ほど受講したのですが、ここでの成績は最悪。高校でも美術部でしたが、デッサンの順位は最下位クラスでした。平面構成は辛うじて向いていたようですが、ムサビに受かったのはほとんど専門試験以外の点数のおかげだと思います(笑)。

そんな状況だったので、ムサビ時代の成績はよいとはいえませんでしたね。デッサンや絵の成績は、優・良・可・不可の可。出席日数だけはよく、そのお情けでなんとか可にしていただいたような感じでした。高校時代までは勉強ができるタイプだったのに、大学ではいきなり落ちこぼれ。一年生の頃は辛かったですね。

「ピントを合わせられる仕事」を求めて

左から『エムブリヲ奇譚』山白朝子(メディアファクトリー / 2012年)、『私の家では何も起こらない』恩田陸(メディアファクトリー / 2010年)、『本日は大安なり』辻村深月(角川グループパブリッシング / 2011年)
左から『エムブリヲ奇譚』山白朝子(メディアファクトリー / 2012年)、『私の家では何も起こらない』恩田陸(メディアファクトリー / 2010年)、『本日は大安なり』辻村深月(角川グループパブリッシング / 2011年)
左から『ニキの屈辱』山崎ナオコーラ(河出書房新社 / 2011年)、『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子(講談社 / 2011年)、『やわらかなレタス』 江國香織(文藝春秋 / 2011年)
左から『ニキの屈辱』山崎ナオコーラ(河出書房新社 / 2011年)、『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子(講談社 / 2011年)、『やわらかなレタス』 江國香織(文藝春秋 / 2011年)
  • 左から『エムブリヲ奇譚』山白朝子(メディアファクトリー / 2012年)、『私の家では何も起こらない』恩田陸(メディアファクトリー / 2010年)、『本日は大安なり』辻村深月(角川グループパブリッシング / 2011年)
  • 左から『ニキの屈辱』山崎ナオコーラ(河出書房新社 / 2011年)、『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子(講談社 / 2011年)、『やわらかなレタス』 江國香織(文藝春秋 / 2011年)

卒業後は広告代理店に入社しました。このときは友人から入社試験の情報を得て受けることにしたのですが、会社へエントリーシートを取りに行ったら、なんと入社試験の課題も締め切り前日。学校の課題も明日が締め切りという状況の中、徹夜で2つを仕上げて提出しました。そんな状況を乗り越えて入社した会社でしたが、私には向いていませんでした。この会社では企業のCMや、ポスター、雑誌広告を作るなど、アートディレクターとして働いたのですが、不特定多数の人に広く認知してもらうという仕事は相手の顔がよく分からず、どこにピントを合わせて作ればいいのか、私にはわからなかったんです。また、作ったものが、準備期間の長さに対して、あまりに一瞬で役目を終えてしまうのも、さみしかったですね。

結局は独立して装幀の道を進むのですが、装幀という仕事は本の内容次第。私自身の作品を作っているという意識はなく、アーティスト体質でもないので、純粋に本の内容を感じるままに制作しています。そういえば、ムサビ時代も好きなテーマを自分で決めて、ポスターを作るというような活動には全く興味がなかったですね。今でも「こんなポスターが作りたい!」とか、「私のこのデザインを見て!」といった気持ちは全くありません。そう考えると、私は全然クリエイティブではないのかもしれません。装幀の仕事のように、内容に感化されて、そこから物事を進めていく、というのが向いているようです。

でも、本の質を高めたいという気持ちは強くもっています。そのため、原稿を読んでいても良いところをできるだけ感じ、その魅力を最大限に引き出したいと考えています。そんな気持ちで読むので、作品に対してはまるで母親な気持ちに。ときには読み終えてから、タイトルは違う方がよいのでは? など、私の意見を編集者に伝えることもあります。何度も原稿を読んでいる作家と編集者に比べ、私はゲラの段階で初めて読みますから、客観的な立場でいられる最初の読者として、感想を伝えるのも仕事のうちかもしれません。

ムサビ時代に学んだこと、経験したこと

名久井直子
名久井直子

ムサビ時代の経験で最も役立っているのは、情報を整理する能力を磨けたことです。例えば、一番好きだったのは太田徹也先生のダイヤグラムの授業。ダイヤグラムとは、ある情報を表やグラフなど目に見える形に表現する手法で、地下鉄の路線図などもダイヤグラムにあたります。私は情報を整理して視覚化するという作業が好きで、この授業は開始30分も前に教室へ入り、一番前の席を確保していました。課題のほかにも自発的にダイヤグラムを作ったりして、遊びとしても楽しんでいました。例えば、杉浦康平さんの「時間地図」を現代版に作り直したりしたのですが、簡単に説明すると、東京からの移動時間によって地図を形作るんです。東京から北海道でも札幌は飛行機が利用できるから東京に近くなっているし、アクセスが不便な網走は遠くなっているというように、所要時間に応じて日本列島が歪んだ形になるのが特徴で、大学当時、まだ路線検索がインターネットでできなかったので、時刻表を片手にこつこつと作っていました。

ムサビの授業のほかに、アルバイトでも似たようなことを学んでいました。当時、私は科学館や文学館のコンテンツを作る会社でアルバイトをしていたのですが、そこでも主な仕事は調べ物をして資料をまとめるということでした。例えば北九州の「松本清張記念館」の仕事があったのですが、このときはさまざまな図書館へ通い、年表をまとめたりしていました。ムサビ時代の思い出というと、友人と遊んだことよりも授業やアルバイトのことが中心だったように思います。とことん真面目な学生でしたね。

大学は学ぶチャンスが多いと思います。私は視覚伝達デザイン学科で学びましたが、タイポグラフィの基礎知識などは、ムサビに入学したおかげで学べたスキルです。ほかにそういったことを学べる場所は少ないですから、美大生でなければ、独学するしかないですよね。そういう意味では真剣に授業を受けないと損ですよ。私は貧乏性なせいか、4年生のときはほとんど単位を取り終えていて空き時間が増えたので、単位対象外の2年生の授業も聴講していました。現役の学生は今の学べるチャンスをぜひ、逃さないようにしてほしいですね。