写実表現にこめる存在のすべて
諏訪敦 画家

諏訪敦「写実表現にこめる存在のすべて」 諏訪敦「写実表現にこめる存在のすべて」

Profile

諏訪敦(すわ・あつし)
武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。同大学大学院修士課程修了。画家。1994年、文化庁芸術家派遣在外研修員に推挙、2年間スペインに渡る。2000年『大野一雄・慶人』(日本橋三越本店)を開催。主な個展に、2008年『複眼リアリスト』(佐藤美術館)、2011年『一蓮托生』(成山画廊)がある。2011年『諏訪敦絵画作品展 ~どうせなにもみえない~』(諏訪市美術館)を開催し、2冊目の作品集『どうせなにもみえない』を刊行。このほか、NHK日曜美術館「記憶に辿りつく絵画~亡き人を描く画家~」への出演などがある。

舞踏界の巨人、大野一雄・慶人親子を描いた連作など、モデルの皺やシミ、傷や肌の色までも細密に描き、リアリズムの神髄を示す描写、そして特異な制作アプローチで知られる画家、諏訪敦。具象絵画はムサビ時代から手掛けていたものの、芸術の時流に距離を感じて、劣等感を感じる場面もたびたびであったという。

ムサビで他人とぶつかり合うことを知った

故郷の北海道では進学校に通っていたので、ぼんやりと北海道大学へ進学するものと思っていました。ところがいよいよ進路決定の時期になって、もう高校と似たような場所には行きたくないと熱病のように考えるようになったんです。普通大学は座学ばかりという思い違いがあったのですね(笑)。そこで突然、美術系大学へ進路変更したいと口にしました。とにかく変わらない日々を強引に変えて、自分をどこかに放り出してみたかったのでしょう。子供の頃から絵が得意だったからという安直な考えでしたが、そう甘いモノではありませんでした。高校教師には保護者呼び出しの末「美大の進学指導はわからない」とさじを投げられるし、本人は受験テクニックが不可欠という最低限の事実すら知らなかった。準備不足のまま、ムサビに当時あった短大に合格できたことは単に幸運だったのだと思います。

その後、学部への編入を経て大学院まで進むことになるのですが、ムサビ時代はほんと、楽しかった。なかでもこの短大での日々がより印象深いものでした。

短期大学部美術科=タンビといわれるそこは、特に数少ない男子は芸大受験に失敗した浪人者の吹きだまりといった様相で、なかには4浪というツワモノもいました。そのため、現役入学だった私は年齢的にも末っ子のように大目に見られる存在になり、彼らから絵の見方や描画テクニックなど、美術のことはもちろん、人間として普通のことも教わったような気がします。

入学当初の私は他人に対しての関心が薄く、人の気持ちをおもんぱかることができなかった。密接な関係の構築方法がよく分からない。一方、友人たちは毎日さまざまな企画を開くことに意味不明な執念を燃やしていました。企画とは名ばかりで理由を付けては集まり、思いつくままに制作し、壊し、遊ぶだけなのですが(笑)。仔犬が噛み合うような毎日に、有無を言わさず仲間として巻き込まれ、2年程、毎日大学の4号館の下で用もないのにたむろしているうちに、私は濃厚に他人とぶつかりあう価値を知り、大袈裟に言えば人間性を回復できたと思っています。

大学院修了後は、大学に残るという選択肢も考えたのですが、結局、就職活動をしました。そのころは既に絵画を描いて生きていくことは決めていましたが、前提としてパラサイトすることは頭にありませんでしたし、人間を描くのに、他人に金で使われる体験がないことはまずいだろうと思ったのです。リクルートスーツは友人からの借り物でしたが、鹿島建設に内定をいただいて、赤坂の設計エンジニアリング総事業本部に8年ほど勤めました。

入社した後の制作時間は単純に睡眠時間を削ることで確保する他ありませんでしたが、1994年に一時休職し、文化庁芸術家派遣在外研修員としてスペインに2年間留学しました。鹿島建設は青年海外協力隊にも積極的に社員を送り出すようなありがたい雰囲気だったので、私のようなケースにも寛容に対応してくれたのです。派遣前に本部長に呼び出され「帰ってきてすぐ辞めるんじゃないぞ。最低でも5年はいろ!」と言われたので、その後きっちり5年間勤めて辞めました(笑)。これは冗談ですが、PCモニターを見つめる職務時間が長く、視力に影響が出始めたのが辞職した直接の理由です。

制作手法の開眼と、大野一雄氏との出会い

大野一雄 Kazuo Ohno 2007-8 1199×1940mm oil on canvas Courtesy of the Artist
大野一雄 Kazuo Ohno 2007-8
1199×1940mm oil on canvas
Courtesy of the Artist
聖徳太子~大野慶人(部分) Prince Syoutoku ~ Yoshito Ohno (detail) 1999 ~ unfinished 145.5×112cm oil / tempera on panel Courtesy of the Artist
聖徳太子~大野慶人(部分) Prince Syoutoku ~ Yoshito Ohno (detail)
1999 ~ unfinished
145.5×112cm oil / tempera on panel
Courtesy of the Artist
100歳を迎えて介護される大野一雄さんを訪れ、スケッチ取材をおこなった。2006年12月28日 川本聖哉撮影
100歳を迎えて介護される大野一雄さんを訪れ、スケッチ取材をおこなった。
2006年12月28日 川本聖哉撮影
《恵里子》(2011年)を中心に、像主の遺品、諏訪による両親のスケッチ、佐藤技研制作による義手など。   撮影=飯村昭彦 Courtesy of the Artist
《恵里子》(2011年)を中心に、像主の遺品、諏訪による両親のスケッチ、佐藤技研制作による義手など。
撮影=飯村昭彦
Courtesy of the Artist
Stereotype 08  (detail) 2008 1940×1293mm Oil On Canvas 横浜美術館寄託 Courtesy of the Artist
Stereotype 08 (detail) 2008
1940×1293mm Oil On Canvas
横浜美術館寄託
Courtesy of the Artist
  • 大野一雄 Kazuo Ohno 2007-8 1199×1940mm oil on canvas Courtesy of the Artist
  • 聖徳太子~大野慶人(部分) Prince Syoutoku ~ Yoshito Ohno (detail) 1999 ~ unfinished 145.5×112cm oil / tempera on panel Courtesy of the Artist
  • 100歳を迎えて介護される大野一雄さんを訪れ、スケッチ取材をおこなった。2006年12月28日 川本聖哉撮影
  • 《恵里子》(2011年)を中心に、像主の遺品、諏訪による両親のスケッチ、佐藤技研制作による義手など。   撮影=飯村昭彦 Courtesy of the Artist
  • Stereotype 08  (detail) 2008 1940×1293mm Oil On Canvas 横浜美術館寄託 Courtesy of the Artist

帰国後、私の関心事になったのは「日本人」そして「肉体性」です。留学経験者が自身の由来に関心が向くというのは、よくある話です。

日本発祥の現代表現で世界的な成果といえるものは、舞踏 (BUTOH) がその筆頭として挙げられると思います。この事実は、国内よりむしろヨーロッパで実感できるものでした。その創始に関わった重要な人物、大野一雄、慶人両氏が現役であると知り、これは絶対に会わなければと。当時、私には自慢できる国内での受賞歴もありませんでしたし、若過ぎて何も持ちあわせてはいませんでした。舞踏の巨人といわれるような方々にモデルを依頼すること自体、失礼で身の程知らずと周囲には反対されましたね。ところが思いがけず快諾をいただけたのです。言うまでもなく大野先生はコラボレーションをする相手を厳選できる御立場なのですが、肩書きだけで相手を判断しない柔軟さと大きさがあったのだと思います。

1999年に上星川にある舞踏研究所で半日もの長い時間、私の目前でひたすら踊り続ける彼らをモデルとして「占有」した信じられない経験は、その後の私を決定づけました。というのは、私が取材をした当時の大野一雄先生は既に90歳を超えており、意思疎通が難しかったのです。その膨大な思想を知るために著書を読破し、稽古に顔を出すのは勿論、舞台に足を運び客席でドローイングを繰り返しました。果ては明治時代の函館にあった先生の生家跡を辿り、風景を描くなど、まるで探偵のように先生の来歴を調べていきました。この熱狂的な経験が、私の作品の幅を拡げたのだと思います。

本来的に絵画は視覚芸術ですので、このプロセスは誰にも必要とはいえませんし、具象絵画に注ぎ込むには過剰なものです。ただ、私の制作をそれと足らしめているのは、この徒労かもしれない時間なのです。

美術大学の提供できる「場」とは

諏訪敦
諏訪敦

私が大学院生の頃は具象絵画、ましてやリアリズム絵画などは時代錯誤とみなされており、じんわりとした劣等感にまみれていました。求められていないことを十分承知のうえで描いていたのですが、教室を訪れたある美術家に、あからさまに見下されて強い怒りを感じたことがあります。それは批評というものではなかった。この傷の痛みは現在でも新鮮で、かえって絵画制作を継続させる力になったのかもしれません。「不勉強な馬鹿は、早めに道を断ってやった方が親切だ」と言わんばかりだった彼には恐縮ですが、私は予想より図々しかったということでしょう(笑)。

大学教育の中でその都度、最新の状況に食い下がるのも、ひとつのあり方ですが、追従の果てに出来上がった作品はその瞬間に「遅れたもの」になってしまうことも事実です。ましてや、油絵コースと銘打っているのに、油絵をやっていること自体に誇りを持てないなんて、病んでいるとは思いませんか。

とは言え自分自身が大学教育に関わってみると、無力感を感じることもたびたびです。例えば大学の先生には、メソッドに従えば誰もが到達できる結果、つまり効能書きのようなものを求められます。その重要さを否定するものではありません。ただ、そもそもアーティストは思考の順序自体を自分の手でつかみとっていくべきものであり「これこそが正道、これだけが正解」と植え付けてしまうことはとてもこわいことです。学生が自身で考え、見出す能力をむしろ減退させるのではないかという危惧がいつもあるのです。私がムサビで学生時代に出会え、現在も感謝している幾人かの先生たちは、その加減というか助言のタイミングを知っていたような気がするのです。

大学時代は、無制限に制作へ時間を注ぎ込める、人生の中でも特別な季節です。そこではむしろ充実した「場」を提供することが、導くことよりも重要なのでは、と思うようになりました。その意味で教員の果たせる役割は、あまり大きくないのかもしれません。せめてそこを絶えず手入れし、保全する係というか。

ムサビには学べる場、調べる場、友人と過ごせる場、多様な制作を実現できる極めて良質な場が、本人さえ望めばふんだんに見つけられるはずです。そこは歴史の蓄積に裏打ちされている。学生には存分に活用してほしいと思います。