全国各地で活躍するマウジン2017 平林奈緒美アートディレクター/グラフィックデザイナー

平林奈緒美 (ひらばやし・なおみ)アートディレクター/グラフィックデザイナー
(1992年武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業)
東京生まれ。大学卒業後、株式会社資生堂(宣伝制作部)入社。2002年より1年間ロンドンのデザインスタジオ「MadeThought」に出向。04年12月資生堂を退社し、05年1月よりフリーで活動開始。 これまでの主な仕事に、資生堂の企業広告、「FSP」 / HOUSE OF SHISEIDO、東京資生堂銀座ビルをはじめとする資生堂での仕事のほか、Toshiba「dynabook」アートディレクション、NTT DOCOMO/JTB HOPE等のパッケージデザイン、United Arrowsなどセレクトショップのグラフィック、CDジャケット、書籍の装丁など多数あり。
主な受賞に、NY ADC 金賞 / 銀賞、British D&AD 銀賞、JAGDA新人賞、東京ADC賞、東京TDC賞、グッドデザイン賞など多数あり。

形に残るところがデザイナーという仕事の魅力だと思う

─ムサビ時代の思い出は

逢坂卓郎先生の授業が楽しかったですね。とくに先生の出す課題がユニークで、よく覚えているのは「クラブのエントランスを作れ」というもの。チームで取り組んだのですが、単純にパネルを作って終わらせるのではなく、一所懸命に模型を作ってプレゼンテーションしました。当時、課題が出されると先生が講評してくださるのですが、外部の方が呼ばれることもあり、このときは芝浦にあった伝説的なクラブ「GOLD」の仕掛け人、佐藤俊宏さんを呼んでくれました。このように旬の話題になっているものを手掛けている人の話が聞ける機会なんてめったにないですから、学生にとってみれば興味津々ですよね。正直、先生の話より楽しみでした(笑)。

現在のムサビの空間演出デザイン学科では、片山正通さんが面白い授業をされていると聞いています。実は片山先生がムサビの先生になるとき、私のところにも相談に来られたんですよ。その時に逢坂先生の課題の話をさせていただいたこともあって。片山さんとは今でもよくお仕事をご一緒していて、ムサビの授業のこともよく聞いていますが、ゲストの講師の方々が普通では会えないような人ばかりなので、学生たちも楽しんでいるんじゃないでしょうか。

─授業のほかにも楽しかった思い出はありますか

私の一番仲のよかった友達にグラフィックデザイン界の巨匠、青葉益輝さんの娘さんがいたのですが、彼女の縁でよく青葉さんの銀座の事務所に出入りさせていただいていました。そこで、当時の第一線で活躍されているデザイナーの方々に会うことができたり、展覧会に連れて行ってもらったりしたのですが、本当にいい経験になりました。おかげで、私は空間演出デザイン学科で学んでいたのですが、3年生の頃にはグラフィックデザインにより強い興味をもつようになっていました。

このほかにも、毎日広告デザイン賞などに応募したこともいい思い出です。通常、学生はグラフィック展などに作品を出すことが多く、毎日広告デザイン賞のようにプロの方々が出すようなデザイン賞に応募するなんてことはほとんどありません。こういうことにチャレンジできたのも、青葉さんのおかげです。しかも、うっかり賞を受賞しちゃったんですよ(笑)。毎日広告デザイン賞では企業が課題を出し、それに対する広告を作るのですが、私は資生堂の課題を選んで賞をとったんです。何か、縁を感じますよね。

─資生堂に就職したのは、受賞がきっかけですか

企業内にきちんとした宣伝部があるところで仕事がしたいと考えていたのですが、当時、選択肢といえば資生堂とサントリーの二つでした。しかし、資生堂の受験可能ムサビ枠は5人しかなかったのですが、先生のご尽力によりなんとかその枠に入ることができました。

資生堂では個性的な上司が多くて、いろいろ学ばせていただきました。例えば、新人の最初の仕事はお弁当の手配などで、撮影時のスタッフの弁当や年末の納会のおつまみの選択などを任されます。そのとき、予算が2000円だとしたら、その予算内でいかに美味しいものを選ぶかということにこだわるんですよ。そのためには、やはり美味しいものを知っていなければなりませんので、いろいろなお店に連れて行ってもらいました。いいモノを見る目をもつには、やはりいいモノを知らなければいけないわけで、新人の頃は平日の昼間でも暇な時間があれば、「忙しくなる前に映画でも何でも観に行ってらっしゃい。」と言われるようなところでした。

─資生堂時代で思い出の仕事は

「女の子のための戦闘ギア」という商品コンセプトで展開した、FSP(フリーソウルピカデリー)ですね。資生堂は会社の中にグラフィック、パッケージ、店舗と、デザインに関する部署が3つあったんですが、分業化されていて、お互いの領域を侵犯してはいけないような雰囲気があったんです。ずっとこのシステムに疑問を感じていていたので、FSPのときはそういう垣根を越えてトータルで考えて全部提案させてほしいとお願いしたんです。

おそらく、資生堂でそういうケースは初めてだったと思うのですが、なんとか説得して…。私は会社の中でいちいちモノ申す的な人で、面倒くさいタイプだったんですよ(笑)。それでも、当時の宣伝部のトップの方が耳を傾けてくださり、チャンスをいただきました。おかげで、「初めて自分でやった」と思える仕事ができ、それまで見向きもしなかった賞に海外も含めて出してみたんです。そうしたら、TDC賞、ADC賞、ニューヨークADC賞、英国D&AD賞など、応募したものはほとんどすべて受賞することになりました。

以降、外部のデザイナーに刺激を受ける機会も多くあり、FSPの仕事が一段落した頃から今の会社ではないところでもで仕事がしてみたいと思うようになったんです。

─それで、ロンドンへ行ったわけですね

そうです。何とか会社を説得し1年休職して研修という名目でロンドンへ行きました。ただし、会社が何か手助けしてくれるわけではなく、働く場所も自分で探すという条件でした。そこで、それまでの仕事をすべてファイルに収めて渡英し、いくつかのデザイン事務所を回った末、「MadeThought」という事務所に1年間出向することを決めました。

ロンドンで仕事をして羨ましかったことのひとつは、イギリス以外の国からも仕事のオファーがごく普通に来るということでした。一つでもよい仕事をすると、たとえ駆け出しの事務所でもヨーロッパのメジャーな企業からどんどん仕事のオファーが来るんですよ。日本では、あまり考えられないことですよね。

─ロンドンからの帰国後は

帰国後は、会社が目指す方向と私の考える方向の違いがはっきりしていたこともあり、資生堂の中で何かを改革することに時間と労力を使うより、自分の理想とするスタイルで仕事ができる会社を探したいという気持ちがより強くなっていきました。そこで、外資系のデザイン会社の面接に行ったりしたのですが、その場で「これだけキャリアがあるなら、フリーで仕事した方がいいですよ」と言われ、そのまま仕事もくれたんですよ(笑)。

独立後、一番大きな転機となった仕事は、マガジンハウス発行の女性ファッション誌「GINZA」です。ある日、女性編集長からアートディレクターにとオファーをいただいたのですが、彼女の考えに共鳴したのが仕事を引き受けるきっかけになりました。彼女は「relax」というカルチャー誌を作っていた人なのですが、私との雑談のなかで「あの雑誌は今もファンが多くていい雑誌だったけど、売り上げは伸びなかったねという雑誌は作りたくない」と言い、そこが私には響いたんです。日本のデザイン界では、まったく売れていないのに、見栄えだけいい雑誌が高く評価されることがありますが、私はそういうのは間違いだと思っていたんです。そのため、彼女のような考え方の人となら一緒にやれるかもと思ったんですよね。それまで雑誌の編集なんて経験がないのに、なんとなくできます的な顔をして。

ただ、雑誌の仕事というのは、ものすごく多くの人に会って、ものすごい量のジャッジを瞬時にしていかないと回らない仕事なんです。毎日誰かが必ず事務所にいるんですよ。でも、私は人に会うのが苦手なんです。だから、名刺を見てもらえばわかると思いますが連絡先はメールアドレスのみで住所も電話番号もなし。今でもそうですが、すべての連絡はメールで連絡してくださいと頼んでいます。GINZAの仕事は3年半続けたのですが、その間は電話に出ないということのほか、夜の12時以降は何があっても動かないという約束をしていました。そのため、毎日11時40分くらいになると駆け込みメールがいっぱい来ました。

最近では、尾道の「せとうちホールディング」の仕事が楽しかったですね。水上飛行機の機体のデザインから始まり、日本初の飛行機のチャーターサービス、そのプロジェクトのロゴと機体のデザインを任せていただきました。さらに、瀬戸内海を運航する客船のロゴや船体のデザインも手がけたのですが、先日、その船の進水式に行ってきた際、船にロゴが描かれているのを見てすごく感動しました。このように自分が手掛けたモノが目に見える形で残り、売られたり飾られたりすることがデザイナーという仕事のやりがいだと思っています。

─今度、ムサビの仕事も手掛けられるそうですね

ムサビは現在、ブランディングの再構築が検討されており、大学案内やポスターなどを長嶋りかこさん、学内施設のサインや factbookと呼ばれているいわゆるデータ的なものをまとめる冊子のデザインなどを私が担当することになりました。

元々、私はそういうものが好きで、時刻表とかネジのカタログなど何かが整然と揃ったものが好きなんですよ。細かくて複雑なものをオシャレとは関係なく、機能的に計算してわかりやすく見せるという作業が好きなのかもしれません。何かのインタビューでそういうことを私が語ったと思うのですが、大学の方がそれを読まれていて、オファーしてくださったそうです。

具体的に現在、手掛けているのは新宿から移転するMITAKA ROOMのサインです。ただ、これは大学の建物ではなく、普通のビルにテナントとして入っているため、制約がすごく多いんですよ。打ち合わせに行くとビルの管理上、あれはダメこれはダメという説明を延々と聞かなきゃいけないんです(笑)。しかし、そういう制約の中でやってもよい隙間のようなものを見つけていくというのも、仕事の楽しみの一つになっています。

─平林さんにとって、ムサビのブランドイメージとは

スキルよりも人間の内面的な教育に軸足を置いているように感じています。例えば、私も逢坂先生の課題の話を冒頭にしましたが、課題が出される際にも就職活動時に使えそうな「何々の広告を作りなさい」というようなものを出されることは少ないと思います。実際、ユニークな考えをもった先生が多く、ノウハウを学ぶことよりも人の考えや生き様に刺激を受け、考えさせられるようなことが多いと思います。

─最後にムサビ生たちへメッセージをお願いします

私もそうでしたが、空間演出デザイン学科だからといって将来必ずその学科に関連する方向へ進むとは限りません。私の同級生たちも同学科からトヨタのカーデザイナーになった人、博報堂に入った人など、進路は本当に多彩でした。私にしても受験生だったころは工芸志望で、入学後、グラフィックデザインに興味をもつとは思っていませんでしたし、そもそも、当時はグラフィックデザインがどういうものかすらよくわかっておらず、入学して2年ほど経ってからやっと理解し始めたのだと思います。それは私に限らず、ほとんどの学生がそうではないでしょうか。しかし、ムサビでは学科の枠を超えていろいろなことを学ぶことができるので、自分が本当にやりたいことは何か、在学中にきっと気づくことができるでしょう。そのため、学科にこだわらず、いろいろなことに興味をもって学ぶことをおすすめします。