全国各地で活躍するマウジン2017 加藤雅之新潟市役所 参事
加藤雅之 (かとう・まさゆき)
新潟市役所 参事/元新潟市立黒埼南小学校校長
(1977年度 武蔵野美術大学建築学科卒業)
1956年、新潟市生まれ。大学卒業後、東京の建築会社に入社し現場監督として経験を積む。1979年に退社し、新潟へと帰郷。一級建築士の免許を取得後、新潟市役所で新潟駅南口の再開発事業をはじめとした新潟市の街づくりに貢献。また2010年には新潟市役所職員として初の民間人小学校校長に採用され、新潟市立黒埼南小学校に3年間勤務。2012年、新潟大学教育学部芸術環境講座と地域住民との連携プロジェクト「いてぇもん物語−おわってはじまる校舎の記憶−」などを企画・開催。その後、政策企画部門の理事職を経て2016年より現職。
街づくりは、結局、人づくりなんです
─ムサビでの印象深い思い出はありますか
1年生のとき、箱根彫刻の森美術館や池田20世紀美術館の設計を担当された井上武吉教授から、「一辺30cmの立方体で自分を表現しなさい」という抽象的な課題が出されました。同級生には浪人中に美術系の勉強をしてきた人も多く、プラスチックの板や木材をきれいに削ったすごい作品をつくっている。一方、現役合格の私は何のアイデアも浮かばない。
それで講評日、苦し紛れにトイレットペーパーを1本提出したんです(笑)。当時は古新聞・古雑誌のちり紙交換というのがあった。1カ月分の新聞紙は約30cm分になり、トイレットペーパー1本と交換される。そういう理屈を講評で喋ったら、A+をもらい、話の合わなかった同級生たちからも「お前、おもしろいな」と受け入れられ、仲良くなりました。
新潟駅南口直結の複合商業ビルPLAKA(プラーカ新潟)。「PLAKA」とはギリシャ語で広場を意味する。現在はテナントの約80%がホテル・オフィスとなっている。
─新潟市役所では主に何をされてきましたか
卒業後に東京の建築会社で2年ほど現場監督をした後、新潟に戻って一級建築士の免許を取得、公務員試験にも合格したので新潟市役所へ就職しました。多少設計にも携われるのかと思っていたら、係長から「市役所内でやっているのは公衆トイレか公園の猿の檻だよ」と(笑)。でも実際は再開発事業に1年目から駆り出され、2年目には新潟駅前にあるPLAKA(プラーカ新潟)という3棟のビルの担当をさせてもらったんです。これはとてもやりがいがあったし、さまざまな面で成長できました。その後は、主にまちづくりに携わっています。
齋藤喜十郎氏の邸宅(明治40年代の建築物と推定)の一部に新たな茶室などを付加して白山公園の一画に移築再建された燕喜館。国の登録文化財。現在は一般公開(無料)、貸館(有料)ほか、コンサートや子ども座禅教室などの各種自主事業が行なわれている。
─まちづくりでは具体的にどんなことをされていましたか。
人口減少が全国的な問題となるなかで、新潟から2時間で行ける首都圏への若年層の流出は大きな課題です。定住人口・交流人口を増やすためにするべきことは、やはりまちをどう魅力的に構築するかです。
たとえば新潟市の場合は昔、碁盤の目状に掘割が通っていたのですが、高度成長期に埋めて道路にしてしまった。それを一部、復活させようという動きがあります。倉敷市のようなイメージですね。
また、これは数年前に私自身が携わったのですが、廻船問屋や金融業をされていた齋藤家という商家の邸宅を白山公園の一画に移築した、燕喜館(えんきかん)という建物もオープンさせました。一般開放されており、当時の邸宅の貴重なつくりが無料で見学できるほか、最近では時代劇のコスプレ衣装を身にまとい、同行のカメラマンに撮影させる若い方々で賑わう日もあります。
─加藤さんは新潟市役所職員として初の民間人校長にもなっています。応募のきっかけは
やはりまちづくりの前に人づくりなのではないかと思うようになったことが大きいですね。
2003年に東京・杉並区で民間人校長が誕生し、全国でもその流れが広まりました。新潟市では公募1年目に素晴らしい2人の校長先生が入ったのですが、2年目の応募者数が伸び悩み、私から「市の職員も公募したら」と提案し、庁内公募が始まりました。それで言い出しっぺの私も少し責任を感じて応募したら合格し、市役所職員初の校長になったわけです。
赴任先は郊外のわりとのんびりした小学校で、子どもたちはのびのびしているし、地域の住民もよい方ばかり。毎朝子どもたちと校門の前で「おはよう」と言い合う生活を3年間続けましたが、本当に素晴らしい日々でした。あの経験は、仕事人生でいちばん充実していたと思います。任期終了の壇上での挨拶は、感極まって言葉が出なかったくらいです。
「いてぇもん物語-おわってはじまる校舎の記憶‐」ランドセルカバーづくり
「いてぇもん物語-おわってはじまる校舎の記憶‐」ワークショップ風景
─新潟大学教育学部と地域住民とでプロジェクトも行ったとか
ようやくアートの話になりますが、新潟大学教育学部の教授と何かおもしろいことをやれないかということで、大学生にアイデアを絞ってもらったんです。
大きくいうと3つあって、ひとつは学校の近くにできた新しい公園のオープニング事業で、透明なシートなどに描いた子どもたちの作品を公園に飾る「ひかり動物園」。ふたつ目は、子どもたちや地域の人に「絞り染め」の技術を教えてつくってもらった作品を公民館に飾る「公民館壁面アート」です。
3つ目が、「いてぇもん物語」という小学校解体イベント。学校統合のために古い校舎が取り壊されることとなり、ランドセルカバーづくりや、オノマトペを題材にした子どもワークショップを大学生たちと企画して、地域の方々とちょっとしたお祭りをしたんです。昔の給食を再現してじいちゃん・ばあちゃんに食べてもらったり、校舎の緞帳や雨具かけを使った大学生の作品を販売したり。最後にみんなで盆踊りをして、建物を解体しました。これも忘れられない思い出ですね。
─今後の展望は
いまも赴任していた小学校に少しだけ関わらせてもらっていて、グラウンドを芝生化したので、夏場は週に一度芝刈りに行ったりしています。今後も地域や子どもたちと関わるなかで、アートの視点を何かしら取り入れたものを続けていけたらいいですね。子どもたちと接している時間はとにかく楽しいし、子どもは“未来の市民”ですから、末長く付き合っていきたいと思います。
─ムサビで学ぶ学生にメッセージ
美術大学を出たからといって、アートに関わる未来しかないわけではない。いろんな可能性があって、チャレンジしたりセレクトしたりできるわけです。私は行政の仕事に就きましたが、現場は非常にクリエイティブですし、私の場合は少なくとも200人の子どもにアートと触れ合う機会をつくることができました。自分が本当に思い描いた道にまっすぐ進むのでもチャンスを窺うのでもいい。とにかく進路を狭めないで、自信を持って、ぜひ自分らしい道を見つけてください。
編集後記
ムサビを卒業して市役所職員というのは不思議なキャリアだと思っていたけれど、実際にお会いした加藤さんは非常にクリエイティブな方だった。特に校長先生として小学生と3年間を過ごし、彼らと地域住民にアートと触れ合う機会を与えられたというのは、まさしく加藤さんのいうところの「まちづくりは、人づくり」の体現であるし、どんな職業でも“ものづくり”ができるということを示していると思う。
ライタープロフィール
堀 香織
1992年度 武蔵野美術大学造形学部 油絵学科卒業
鎌倉市在住のライター兼編集者。石川県金沢市生まれ。雑誌『SWITCH』の編集者を経てフリーに。人生観や人となりを掘り下げたインタビュー原稿を得意とする。毎月、雑誌『Forbes JAPAN』で執筆中。ブックライティングの近著に映画監督 是枝裕和『映画を撮りながら考えたこと』『世界といまを考える(全3巻)』、横井謙太郎・清水良輔共著『アトピーが治った。』、落語家・少年院篤志面接委員 桂才賀『もう一度、子供を叱れない大人たちへ』など。
http://forbesjapan.com/author/detail/296