溶断の向こう側に鉄の別姿を求めて
青木野枝 彫刻家

青木野枝「溶断の向こう側に鉄の別姿を求めて」

工業素材として使われる鉄の塊を独自の感性で溶断、溶接。多彩な表情をもつ彫刻作品として生まれ変わらせ、観る人々を魅了してきた青木野枝。ムサビ時代は重い鉄を運ぶために多くの学友の手を借りることが日常茶飯事だった。そのたびに二度とこんな作品は作らないと思いながらも、制作活動をやめられなかったという。

Profile

青木野枝(あおき・のえ)
武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。同大学造形研究科彫刻コース修了。彫刻家、版画家。多摩美術大学客員教授。1997年、第9回倫雅美術奨励賞(創作部門)を受賞。2000年、平成11年度(第50回)芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。主な個展に、2000年「青木野枝展──軽やかな、鉄の森/目黒区美術館、東京)」、2003年「青木野枝-熊と鮭に 国際芸術センター青森(ACAC)/青森」、2011年「青木野枝ー流れ、落ち続けるー」がある。

辿り着いたら、鉄を素材とする彫刻家だった

私は子供の頃から、何になりたいとか将来の夢をもっていませんでした。周囲でお嫁さんになりたいとか、お医者さんになりたいとか言っているのを聞いても、「なんで?」って思っていました(笑い)。高校受験のときは勉強するのが嫌で、なんとなく芸術高校、もしくは農業高校か園芸高校に行けば楽しそうだな、くらいに考えていました。結局、東京都立芸術高校に入学したわけですが、ここで美術科の彫刻コースを選んだことが創作の始まりだったんだと思います。

彫刻コースを選んだのは、絵が下手だったから。デザインコースなどは絶対に無理だと思っていたので、できるのは彫刻かなと。ムサビでも彫刻学科に入学したわけですが、それでもまだ彫刻家になろうなんて思っていませんでした。というより、なれると思っていませんでしたね。将来についてなんとなく考えていたのは、修行僧のようなもの(笑い)。何か職業に就くというのではなく、自由でいられる『何か』を探していました。だから、しばらくはフリーターのような生活で、今のように彫刻という仕事がおもしろいと感じ始めたのは、30歳を過ぎてからでした。

現在、私は彫刻の素材として鉄を選んでいますが、ムサビ時代から一番おもしろい素材だと思っていました。私にとって石や木というのは、そのままでいいものなんです。わざわざ彫る必然性を感じない。これに対して鉄は通常、美術用ではなく工業材料として使われるものですから、自分で切って加工をすると新しく生まれ変わるような感じがするんです。その感覚がすごく好きなんです。

私の場合、作業の99%は溶断で、丸型なら丸型を一日中切り続けています。この溶断という仕事に没頭できる時間が大好きなのですが、できたパーツを溶接するのは美術館など、現場でやることがほとんど。最初に適当なイメージを絵に描くのですが、鉄を切っていくうちに、完成型のイメージが徐々にできてきて、現場で溶接して初めて完成したものを見るのがいつもの流れです。だから、なんとなくイメージはもっていても、最後にどうなるかは分からない。むしろ、自分が思っていた通りのものより、ちょっと違ったものができたときの方がおもしろいですね。

地元の理解を得るところから始まった、二つの芸術祭がもたらしたもの

近年になって、私は「瀬戸内国際芸術祭」、「越後妻有 大地の芸術祭」と二つの芸術祭に参加しています。

『空の粒子/唐櫃』2010年
写真:山本糾
協力:ハシモトアートオフィス

「瀬戸内国際芸術祭」は、過疎で活気を失った瀬戸内の島々を盛り上げるため、現代美術を通して美しい島々の魅力を発信することを目的としたもので、私は豊島に『空の粒子/唐櫃』という作品を作りました。この場所は集落の貴重な水源のある神聖な場所で、展示する3年ほど前から足を運び、お祭りに参加したり清掃に参加したりして、地元の方とコミュニケーションをとりながら作品を作りました。親戚のようにお付き合い下さる方がいるので、今でも島を訪れたときには、ご自宅に泊めていただいたりもします。

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