自然の中の作品。作品の中の自然。
内藤礼 芸術家
豊島美術館
写真:森川昇
Teshima Art Museum
Photo: Noboru Morikawa
内藤礼 「母型」2010年
写真:森川昇
Rei Naito “Matrix” 2010
Photo: Noboru Morikawa
私は、この地上の生というものを知りたいわけで、それが絵であろうが彫刻であろうが、インスタレーションであろうが、方法にこだわりはありません。その中で、私にとって代表作となるのが、昨年秋にオープンした香川県の豊島美術館の「母型」です。この美術館は建築家の西沢立衛さんが設計した、40m×60m、高さ4.5mの巨大なドーム状のコンクリート建築で、その中の空間自体が私の作品となっています。中の空間といっても、そこには窓ガラスがなく、雨風が入ってくる、ほぼ野外的な空間で、光や風などの自然現象の影響を受けて、作品の表情が刻々と変わるものとなっています。
これは私にとって、2作目のパーマネント作品で、1作目は隣の島、直島で作った「このことを」になります。これも、私にとって大きな意味のある作品です。古い家屋を用いた作品で、このとき初めて自然光の中で作品を作りました。それまでは、電球を配置して安定した光で一定の見え方をする作品を作っていましたが、この作品は刻々と変化する、自然光を受け入れたわけです。そして、この地上の自然を受け入れること自体がどれだけ豊かで幸福であるかということを、制作しながら知っていったのです。この数年、私は光や水、風といったものにより、次の瞬間に何が起こるか分からない偶然性そのものである自然の生気(アニマ)を探求していますが、その最初の出会いは、2001年に作った直島の「このことを」にあったと言えます。
何をしているか分からないくらい集中できるもの
大学時代に学んだことのひとつが、作品を批評する目です。作品を作るということは、作品を批評することでもありますが、大学時代にその力を繰り返しつけてきたような気がします。でも、その一方で自分が何をしているのか分からないくらいの状態で集中できることが大切です。ムサビの学生にもそれを見つけてほしいですね。私の場合は、卒業制作のときにその時期が来たわけですが、今考えると、あの時期は非常に貴重な時間だったと思うんです。
今、私はすごく矛盾したことを言っています。だけど、両方必要なんですよ。自己批評できる力、つまり外から自分を見る力が必要だけど、その一方で全く見ない、自分が何をしているのかすら分からない、そのどちらとも必要だということです。これは、すごく大事なことで、自分がやっていることの中に分からないのに強く引きつけられる何かがあれば、それこそが種であり、それを育てていくことこそがモノを作っていくということだと思うんです。要するに自分で理解できるようなものを作るのは違うだろういうこと。
自己表現ではない芸術というものがこの世には存在します。一般的に作品を作るということは、自己表現をすることというように思われます。でも私はそうじゃない、それだけではないと思っています。人が作品を生み出すということは、自己の発露だけではないはずです。そういうこともあって、私は風が吹く、水が流れるといった、次に何が起こるか分からない自然、世界の母体である自然と人間の生との連続性について考えていくことになったのだと思います。