続いて本学教員とゲストから竹への考え方、思いなどが述べられた。
伊藤准教授:
私も竹に触れるのは、このプロジェクトが初めてでして、指導するというよりは学生達と一緒に勉強している状態です。竹の再生力は大変魅力ですし、同時に美しい造形への可能性が至る所に秘められています。特に竹の持つ弾力を上手に活かせないか、どういう機能を持つことができるのか考えています。
竹は暖かい地域に広く分布するものです。私はアフリカに縁があるので、アフリカでもどうにか展開できないか、ということにも関心があります。
宮下教授:
僕はこれまでに建築を40年程やってきていますけれども、自然素材に直接向き合うというのは木造建築など、一部に限られていました。竹は自分の概念からは外れていましたので、具体的に竹を用いて何かをつくったことはありません。コンクリートや鉄といったものは、元は自然であっても人間によって二次加工されたものですが、そういったものばかりを扱ってきました。ですがそこには人間の身体感覚に対して、何か足りないものがあると感じていました。それはある種のぬくもりですとか、腐ってなくなっていくような自然、人間のサイクル、それは呼吸をしているような感覚かもしれませんが、そういったものが鉄やコンクリートといった素材の中にはありません。建築の場合は法律も含めて燃えてはいけない、倒れてはいけないなど社会の様々なものに制約されています。ですから日詰さんが思い切って色々な取り組みをされていることは、とても素晴らしく思えます。たまたま今回竹のプロジェクトに参加させてもらって、学生達と竹を触りながら、一緒に取り組んでいます。現在私たちは直材、まっすぐな竹を用いてやっておりますが、先ほど望月先生がおっしゃっていた地下茎ですとか、竹の曲がる特性や裂ける特性を用いた、自然界のもつ多様なかたちを活かせるのではないか、と思っています。実際、これまでにありました竹の取り組みを見ていると、実に様々なかたちがあるようです。僕は竹への関わりを通じて、一つの生態を繋げていくかたち、そしてそれが壊れていくようなかたちへの興味を持ち始めています。具体的にどのように実現していったら良いのか、僕の中でもまだ整理されていませんが、その辺りも学生達と共に考えながらプロジェクトをつくっていけたら、と思っています。
竹という自然の素材とどう向き合っていくかということは同時に、エネルギーのあり方ですとか、歴史や風土といったものも考えなければいけないと思っています。一方、人類が培ってきた科学といったものもありますから、その両方がうまく融合できないか、と考えているところです。
宮島教授:
私は小さい頃から竹に触れていたのだな、という実感があります。それは小学校の時に使っていた竹の30cm定規でしたが、当時伸縮が少ないから竹が使われているのだ、と教わった記憶があります。それをある時は孫の手のように背中の痒いところを掻くのにつかってもいました。今思えば、自分の皮膚に竹が触れるという経験が多くあったのだと思います。また、籠などもそうですが、日常生活の中で竹に触れる機会がありました。そして現在改めて竹に向き合っています。取り組みのきっかけは地球環境に取り組むEDS技術との出会いでしたが、どこまで上手く造形ができるのか、またあるいは今後どこまで必要なものになっていくのか、実験的かもしれませんが積極的に挑戦してみたいと思っています。私自身、実際に竹でものをつくる面白さを感じているところでして、学生時代よりも工房にいる時間が増えたような気がしています。ですから私も学生と楽しみを共有しながら取り組んでいくつもりです。また、竹という単純なものに実際触れることで、竹についてどこまで自分自身深めていけるのか、追求していきたいと思っています。
日詰氏:
僕が竹と出会ったのは、先ほどお見せした「五勾」などの籠に取り組み始めた頃からでした。安くて非常に強い竹は、他に選択の余地がない程の素材でした。次第に竹自体の生態ですとか、神話などにも興味を持ち始めました。沖浦和光氏の『竹の民俗誌』という素晴らしい本との出会いもあり、京都に代表されるような非常に繊細な工芸的なものではなく、かつて人々が当たり前のように竹を使い、つくっていた時代の竹の文化といったものも知るようになりました。また、サンカと呼ばれる人々の営みにも驚きました。また、西洋的な分類におさまらず、木か草かも分からず、地下茎で広がる生態はリゾームそのものであり、中心がどこにもなく、仮に竹林を壊滅させるには竹林全体を破壊しなければならない程強く、またそのため地震にも強いという特徴にも魅かれています。まるで西洋的なピラミッド型社会に真っ向から拮抗している植物、というようにも見受けられました。僕が元々民族的な音楽や集落といったものに魅かれていた理由は、竹の地下茎に代表されるリゾームという感覚のためです。民族音楽の非周期性や迷路構造の集落に感じていた魅力と同じものが竹にはあるのです。というのも、ちょうど僕が哲学なども勉強していたこともあって、フランスのドゥールズとカタリのいうリゾームが竹自体であったことに直感的に気付いたのです。そんな中、ペンローズタイルに出会った時に「これだ!」という感覚がありました。ですから、竹との出会いは宿命的なものすら感じます。
竹が安く手に入るということは、鉛筆を持つような気軽さで色々なことを試すことができます。緊張感は必要ないのです。発明家としていくらでも試行錯誤のできる素材というのは大変な魅力です。友人に聞いた話ですが、インドネシアからアーティストを東京に招いた際、竹はないのかと聞かれて、友人が買ってきますというと、そのアーティストは「買うな、買うな。僕が今からとってくる。」といって東京の真ん中で探しに出かけというのです。そのような感覚で竹は使用できるのです。足りなくなったら、その辺で拾ってくれば間に合うという感覚の材料であるため、想像力も湧きますし、すぐに思いついたことが試せます。かつては竹だけでなく藁のように、誰にでも使える素材が偏在していたのだと思います。今回、制作した茶室内で松ぼっくりを持ってきた方にはコーヒーをお出しする、ということを行っていたのですが、松ぼっくりを持ってきてくださったのは若干1名だけでした。他に誰一人持ってくることができず、皆近くに松ぼっくりがない、と言っていましたが、これは深刻な問題だと思います。この出来事は、もう日本の都市は取り返しのつかない状況になっていることを示しているようにも感じますので、東京の都市部に住んでいる方は現状について真剣に考えた方が良いよいように思いました。
シュワーベ氏:
今日見させていただいた作品を3つのグループに分けたいと思います。最初のグループは建築です。これは最も竹の未来の可能性が大きい分野だと思います。しかし同時に問題も一番多い。例えば材料やジョイントをどうするか、です。次のグループは日常で使うものです。これは歴史的にも多くつくられてきました。もう一つは幾何学的な教育モデルです。私が一番興味を持つのはこのグループです。学生の皆さんに言いたいことでもあるのですが、皆、「つかう」ことを前提としています。ですが、私は美しさが最も重要だと思うのです。つかうことのできる必要はないのです。竹そのものの持つ美しさだけでも充分です。それが実際つかえるかどうか、ということは問題ではありません。